空飛ぶ夢と特許の力:ライト兄弟は「特許」で大富豪になれたのか? (記事2/2) ~特許戦争、富の行方、そして現代への教訓~

特許の雑談

こんにちは。Hanaoです!

前回は、ライト兄弟が取得した画期的な飛行機の特許と、それを活用して設立した「ライト社」によって、彼らがどのように収益を得ようとしたのか、その「光」の部分に焦点を当てました。 今回は、その特許が引き起こした熾烈な争い、いわゆる「特許戦争」と、ライト兄弟が最終的に得た「富」の実態、そしてそこから私たちが学べることについてお話しします。

特許戦略の「影」:終わりなき特許戦争

ライト兄弟の特許は非常に強力でしたが、それゆえに多くの挑戦者を生み出すことにもなりました。特に有名なのが、発明家であり飛行家でもあったグレン・カーチスとの特許紛争です。

ライト兄弟 vs. カーチス 特許訴訟の概要

ライト兄弟は、カーチスが開発したエルロン(主翼の後縁に取り付けられた可動翼で、機体を左右に傾けるためのもの)も、自分たちの「翼のたわみ(ウィングワーピング)」による横方向の制御技術の範囲に含まれると主張しました。

この訴訟は泥沼化し、長年にわたって莫大な費用と時間が費やされました。ウィルバー・ライトは訴訟のストレスもあってか、1912年に若くして亡くなってしまいます。彼の死因の一つに、この特許訴訟の心労があったとも言われています。

この長く激しい特許戦争は、いくつかの点でアメリカの航空産業に影を落としたと指摘されています。

  • 技術開発の停滞: 訴訟に時間と資金が割かれ、ライト兄弟自身もさらなる技術革新から遠のいた可能性があります。また、他の企業も特許侵害を恐れて開発に及び腰になったという見方もあります。
  • 産業全体の発展の遅れ: ヨーロッパでは各国政府の支援もあり航空技術が急速に進歩する中、アメリカは特許紛争によって出遅れたという批判も生まれました。

発明を守るための特許が、結果として技術の進歩を遅らせる可能性があるという、皮肉な側面がここには見え隠れします。

特許紛争の終結と「パテントプール」という知恵

この泥沼化した特許紛争に終止符を打つきっかけとなったのは、意外な出来事でした。そう、第一次世界大戦です。

戦争遂行のためには航空機の大増産が急務となったアメリカ政府は、特許紛争で生産が滞ることを問題視しました。そこで政府の強い後押しのもと、1917年に航空機製造業者協会 (Manufacturer’s Aircraft Association – MAA) が設立されます。

MAAは、加盟する航空機メーカーが互いの特許を共同で利用できるようにする「パテントプール」という仕組みを導入しました。 メーカーは製造する航空機1機あたり一定のロイヤリティ(当初は200ドル)をMAAに支払い、そのお金が主要な特許権者であるライト兄弟の権利を継承したライト・マーチン社(オーヴィル・ライトは1916年に自社の特許権をライト・マーチン社に売却)とカーチス社などに分配される、というものです。

  • 航空機メーカー → (ロイヤリティ支払い) → MAA
  • MAA → (分配金) → ライト・マーチン社、カーチス社など <br>

ある資料によれば、1機あたり200ドルのロイヤリティのうち、実に**67.5%**がライト兄弟側に渡ったとされています。また、最終的にライト・マーチン社とカーチス社は、このパテントプールからそれぞれ200万ドルもの大金を受け取ったという記録もあります(この200万ドルという数字は、総額か上限かなど詳細は諸説あります)。

いずれにせよ、このパテントプールによって特許訴訟は終結し、アメリカの航空機生産は一気に加速しました。個々の権利を主張し合うのではなく、共通の基盤の上で協力し合うという、いわば「知恵」が働いた結果と言えるでしょう。

ライト兄弟はどれほどの「富」を得たのか?

さて、いよいよ本題です。ライト兄弟は、特許を通じてどれほどの「富」を築いたのでしょうか?

ウィルバーは訴訟の渦中で亡くなりましたが、弟のオーヴィルは1948年まで長生きしました。彼の死後、明らかになった遺産は約106万7千ドルでした。

「100万ドル」と聞いてもピンとこないかもしれませんが、1948年当時の100万ドルは、現代の価値に換算すると数十億円に相当するとも言われています(換算方法は様々ですが、いずれにしても大金です)。

この遺産が全て特許によるものとは言えませんが、主な収入源を整理してみると、特許が大きく貢献していることが分かります。

オーヴィル・ライトの推定収入源(特許関連)

これらの数字を単純に合計するだけでも、かなりの金額になります。自転車店の収益や、ライト社設立以前のデモンストレーション飛行などからの収入もありましたが、やはり特許を軸とした事業展開と権利売却が、彼の富の大きな柱であったことは間違いなさそうです。

「大富豪」の定義は難しいですが、オーヴィル・ライトが当時相当な資産家であったことは確かです。

特許と富、そして技術発展のバランス

ライト兄弟の物語は、私たちに多くのことを教えてくれます。

  • 特許は発明を保護し、収益化するための強力な武器であること。 彼らは特許を巧みに活用し、ビジネスを成功させ、富を築きました。
  • しかし、過度な権利主張や訴訟は、時にイノベーションの足かせとなり得ること。 特許戦争は、結果としてアメリカの航空産業の発展を一時的に遅らせたという側面も否定できません。
  • 協調と共有の重要性。 MAAのパテントプールは、対立から協調へと転換することで、大きな成果を生み出した好例と言えるでしょう。これは現代のオープンイノベーションの考え方にも通じます。

ライト兄弟が「特許で富を得た」のは事実です。しかしそれは、単に特許を取ったから自動的にお金が入ってきた、という単純な話ではありませんでした。そこには、戦略的なビジネス展開、熾烈な権利闘争、そして時代の大きな変化が複雑に絡み合っていたのです。

おわりに:空のパイオニアが遺したもの

ライト兄弟の功績は、人類初の有人動力飛行を成功させたことだけにとどまりません。彼らの特許戦略、そしてそれがもたらした光と影の物語は、100年以上経った今もなお、私たちに知的財産との向き合い方について多くの示唆を与えてくれます。

空への夢を追い求めた兄弟の物語が、皆さんの知的好奇心を少しでも刺激できたら嬉しいです。

なんでもよいので、気づいたことはお気軽にコメントください。ではまた!



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